もはや日記とかそういう次元ではない

そう、それは日記という既存の枠組みに一切捕われることのない、余りにも宇宙的でユニバースな、それでいてユニバーサルでユニセックスでリバーシブルな、日々の出来事を綴る、例のあれ。日記。

実家の亀と、親父

 

もう15年近くも昔のこと、ある休日に、妹が近所の道路でモゾモゾと這いつくばっていた亀を拾ってきた。「こいつ、落ちてたの」 小さな緑色の亀だった

 

  

そうか、それは飼うしかないな。全裸でソファーに寝転がっていた親父がムクリと起き上がって、言った。なんで飼うしかないんだろう?逃がせば良いんじゃない?亀に対して一切の興味関心が無い当時中学生の僕は首を傾げたが、一糸纏わぬ親父にはそれを「飼う」選択しか見えていないらしい。いやあ飼うしかない、直ぐに水槽を買って来よう。いやあ飼うしかない。ヌードのオジさんは1人でフンフン頷いている

 

 

母親は亀を見るなり悲鳴を上げ、これに猛反対した。「そんな臭いもん、うちで飼えるわけないでしょ」母親は動物が全体的に嫌いで、中でも、虫と爬虫類は大の苦手。池に行って捨ててきなさい。早く。家に上げないで。臭い、やだ、近づけないで!死ぬ!早く、早く池に捨ててきて!死ぬ!

大騒ぎしている

 

 

刹那、普段余り怒らない父親が、珍しく大声を出した。「お前、池になんて捨てられるわけないだろ!!」「そんなことをして、池の生態系が崩れてしまったら、どうするんだ!!?」フルチンの中年は、怒りに我を忘れて怒鳴りつけた。池に捨てるなんてことは出来ない、断じて出来ない。お前ら、池の生態系が、池の生態系が崩れたら、責任をとれるのか!!?責任をとれるのか?!?

 

 

突然興奮し始めたオバさんとオッサンを見て、僕と妹は凍り付いた。爬虫類が嫌だと言っているオバさんの気持ちは分かるが、一方、オッサンの言っていることは一切意味が分からない。こんな小さな亀一匹で、池の生態系なんて崩れるわけなくない?

 

 

というか、親父が多少変わった人であることは知っていたが、こんなにも “池の生態系” に熱い漢だとは、さすがに知らなかった。なぜ池がそんなに大切なんだろうか?このオッサンは、水辺の番人なんだろうか?ポセイドンなんだろうか? 

しかし怒りに我を忘れヴァンダレイ・シウバのような表情で烈火の如く猛る父親が恐ろしく、結果的に、彼の意見は母親の反対意見を粉砕した。亀は、うちで飼育されることになった

 

我が家にとって、それが初めてのペットだった

 

 

 

亀は小さい割には勇ましい雰囲気を持っていて、切れ目で相手を見下したような表情をする、クールなイケメンだった。時折、目を瞑って精神統一する姿はどこか物々しく、渋さすらも感じさせる。ミドリ亀は、妹によって「亀ゴン」と名付けられた。「うむ、恐らくそれがベストの名前だろう」 親父もご満悦だった。亀ゴンは、父親が大喜びで買ってきた巨大な水槽の中にチョコンと入れられ、そこで暮らした。

 

 

1週間に1度、父親が水槽を洗っている間に庭をウロウロ出来る時間以外は、亀はずっと水槽の中での生活を強いられる。水槽の暮らしが安全だから嬉しいと思っているのか、牢獄のようなところに閉じ込められて悲しいと思っているのか、そもそも何の感情も無いのか、全く分からない。何せ、表情のバリエーションが極めて乏しく、その上、何一つ言葉を話さないのだ。呻き声を発することすらない。“彼が何を考えているのか”は、こちらサイドの憶測に一任されており、僕にとっては、それがやや不気味だった

 

拾うだけ拾って名前を付けてから一瞬で興味を失った妹、そもそも亀に全く興味のない僕、週末になると大喜びで水槽を洗う親父、夫の指示通りの時間に餌を与える母親

 

 

 

亀はすくすく育ち、育ち過ぎた。なにせ食欲が物凄く、母親の与える餌を物凄い勢いで食べ続ける。数年が経ち、てのひらサイズだった彼の体長は30cm近くまで肥大化、両手で持ち上げるとズシリとその重みを感じるようになった。亀ゴンという迫力ある名前も、だいぶ板についてきた。

緑色だったはずの色はドス黒くなり、渋さに磨きがかかった。巨大な黒い塊が、漆黒の何かが、水槽の中で蠢いていた。「ゥオオオオオォオン」という重低音な鳴き声が今にも聞こえてきそうな、貫禄ある姿。しかし一向に鳴き声を発することはない

 

 

威風堂々。日に日に凄みを増し、閉ざされた水槽の世界から人間の世界を睨みつけ、貫禄のあるボディでモゾモゾと動きこちらを威嚇するその亀はやがて庭の片隅で異彩を放ち、際立った存在感を見せつけた。妹の受験の日、父と母が大喧嘩をしている日、家族の誕生日を祝っている日、どんな日にも一切の無表情で、いぶし銀な佇まいで、1人でこれでもかという程のドヤ顔をしている。

こ、こいつはスゲェ。何か分からないが、多分この漢は、とんでもなくスゲぇ奴だ… 僕はいつの日からか、亀のことを漢として一方的にリスペクトするようになった

 

 

 

それからさらに数年後、いつからか家族の中でも抜きん出た存在となった亀ゴンに、転機が訪れた。父親が買ってきた亀に関する分厚い本、そこにはミドリ亀である亀ゴンの、正式な種類が載っていた。ミシシッピーアカミミ亀。

 

おお、亀ゴンってこんな名称だったのかと笑った僕たちは、「性別の見分け方」という欄をみて、度肝を抜かれた。亀ゴンは、ミシシッピーアカミミ亀の、「メス」だった。亀ゴンはメスだ

 

  

この時の我々の心境は、筆舌に尽くし難いものがあった。イケメン、カッコいい、いぶし銀だ、今日も佇まいが渋い、とその男気を祭り上げてきた亀ゴンが、女性だった。太くて、硬くて、ドス黒い、ダンディな女性。議論の末、「亀ゴン」という名前はそのままにしておくことが決定した。「彼女も、それを望んでいるだろう…」。引き続き何の根拠もない親父の憶測。人間がペットに抱く感情ほど乱暴なものは無い

 

 

その日から亀ゴンちゃんは、水槽内でモゾモゾとセクシーに動き始めた。鬼頭をヌヌヌと伸ばして、ウッとりとした表情でこちらを見つめ、豊満なワガママボディをこれでもかと見せつけ、魅惑の妖艶ドス黒ボディでセックスアピールを繰り返す。とても魅力的だ

 

ある日を境に女性になった亀ゴンだが、数ヶ月も経つと性転換に関しての違和感は奇麗サッパリなくなった。もちろん、「ゴン」が末尾につく女性の名前は非常に珍しく、まわりを見渡しても亀ゴンしかいないわけだが、それもまたセクシーに見えてきたと言っても過言ではないし、将来自分に娘が出来たら、その時は名前を「愛ゴン」とか「まみゴン」とかにしようと思っていると言っても、それは、さすがに過言である。

 

 

 

数年後、僕は高校卒業と共に一人暮らしを始めて、実家を離れた。それから家族や亀に会うのは年に数回のみになった。久しぶりに会うと、引き続き誰の顔も覚えることの無い亀は、「餌」と「指」の区別が出来ないまま、恐ろしい力で噛み付いてくる。いよいよ噛み付かれると大怪我をするレベルの実力になってきた。彼女の顎の力は侮れない

 

それがいつ見てもエレガントで、とても官能的なのだ

 

 

 

 

 

そんな感じで、亀は、なんやかんや何年も何年も家の水槽で飼育された。その後どんな生き物を飼おうとしても母親が猛反対するため、結果的にその亀は家族にとって最初で最後のペットになった

 

もう、亀が家に来てから、ずいぶんと時間が経った。家族の全員に、様々な変化があった。亀は思ったよりも長生きするんだなあと個人的に驚いている。図鑑によれば、20-30年近く生きるらしい。この亀は、いったい何歳の時にうちに来たんだろう? もうすぐ、死んでしまうんだろうか

 

 

 

 

2,3年くらい前に突然会社から単身赴任を告げられた父親に連れられ、亀は大阪に移り住んだ。それからというもの、親父が1人で彼女の世話をしている

 

  

「今年も、ちゃんと起きました。」

春先になると、冬眠から目覚めたドス黒い亀の写真が、親父から家族全員に送られてくる。母親はこの報告を見て、亀が今年も無事に冬を越して生きながらえていたという事実を知り、毎年、心底ホッとしているようだ。「良かった、今年は起きないかと思ったわよ…」 臭い、汚い、捨てて来いと大騒ぎしていた母親が、今では誰よりも亀のことを心配している

 

 

僕は親父からのこの報告を見て、良い歳こいて突然最愛の妻と離れ離れの生活になってしまった変わり者の父親が、今年も無事に冬を越して生きながらえていたという事実を知り、毎年、心底ホッとしている。亀を一匹池に放ったくらいで、池の生態系が崩れるわけ、なくない? 僕は誰よりも親父のことを心配している。すごく昔から