いよいよ恥ずかしくなってきている。“味覚”というものが9歳の頃から何も成長していない。料理の味が、違いが、全く分からない
先日、男5人で富山県に旅行に行った。どうせなら良いものを食おうということになり富山でも有数の寿司屋を数カ月前に予約した
カウンターしかないその寿司屋の空気感は厳かを通り超えて霊験あらたかであり、その物々しさに気圧されて我々一同は身構えた
回らない寿司屋では寿司の前に刺身のようなものが出てくる。まずは特性のタレで入念にコーティングされたマグロの刺身に、見たこともない草、つまりナゾノクサが添えられた豪勢な一品が姿を現す
食べてみると、ウマい。“うまい” 以上の感想は出て来なかったが、何か気の効いたコメントを残さないといけないと思い、「うわあ、富山のマグロは全然食感が違いますね、それでいてこのマグロならではの甘みというか旨味、これは絶品ですわ」と一丁前にウナってみせた。ブリだった
ブリです。という大将の声が宙に舞う店内の空気は絶品中の絶品だった。残りの4人は込み上げる笑いを押し殺しながら黙々とブリを食した。「最初に出てくるのはマグロだろう」という謎の先入観による痛恨のミス
言われてみれば、味以前に、見た目が少しマグロとは違う
パニックに陥った私は「おお、これがブリですかぁ.. なるほど、これはブリとは思えないほどウマいですね」という一発逆転狙いのコメントを放った。直後、これではただブリをdisっているだけであることに気付いた
これだけの高級店で最高級のブリを堪能しておきながら、口を開けば「ブリのくせしてウマい」という謎の上から目線、よりによってブリに対しての上から目線は、如何なものか
自分は今、ブリという海洋生物をマウントしないと自我が保てないほど窮地に追い込まれているのか? いや、ブリが悪いとか嫌いとかじゃないんです、違うんです、 いや、ブリ自体の価値が低いというわけではなくて、
もちろんブリというのは大前提として最高なんですが、あれだけ最高なブリの想定を遥かに超え、もはやブリだとすら思えないほどに、カニ、そう、カニの味がするという意味なんです 更に言えばこのカニ、フォアグラの味がするアワビですね つまりトリュフです トリュフ、トリュファー、トリュフェスト
脳裏を掠めたこのコメントを口に出さなかったのは、我ながら賢明だったと思う。シンプルにチョップされていた可能性がある
既に状況が詰んでいることを理解した男は目の前に置いてあった推定温度130℃超の激アツ茶を一気飲みし、口内を火の海にしてから何食わぬ顔で2杯目を頼んだ 野生のリザードンだと思われたに違いない
ほどなくして、ウニが出てくる。さすがの僕も、ウニを見間違えることはない。どっからどう見てもウニ。ウニはウニ。食べてみると味もウニだった。ウマい
見た目がウニで味がウニのウニは、さすがにウニだろう。そういうウニは、すべからくウニだ
それにしても本当にウマい。これは間違いなく最高級のウニだ。僕は満を持して、「いやあ、北海道で食べたウニも美味かったけどやっぱ富山産のウニは段違いですわ」と大きめの声でウナってみせた。北海道産のウニだった
この問題に関しては、さすがにお手上げである。マグロとブリを間違える奴が、ウニの産地、分かるわけなくない?
「はっはっは!やっぱり北海道のウニは最高だああああ!」 開き直った男は天に向かって拳を突き上げ、高笑いしてみせた。ここで大将は突然笑った。こいつはダメだと思ったんだろう。懐の深い人で良かったと思う
それから次々と寿司が運ばれてきたが、コメントをする度に変な地雷を踏んでいることを猛烈に反省し、ここからは詳細を説明するのではなく「ウマい」という単語をただ言い換えることにした
どのようにウマいのか、どこがウマいのかというディテールは伏せ、あくまで抽象的に「ウマい」という漫然たる事実を連呼する。「美味いなんてもんじゃないですね」「いやあ、絶品だ」
「なんてウマいんだ」「著しくウマい」「すこぶるウマいですね」「うっま。これってもしかして馬ですか?」
「いやあ、これはおったまげた」「あかん、泣きそうですわ」「恐ろしくウマい寿司、俺でなきゃ見逃しちゃうね」「シャリの上に “旨味”という概念そのものを乗せましたか?」
「ダメ、そろそろ私おかしくなっちゃうかも」「膝から崩れ落ちるとはよく言いますが、顎から崩れ落ちたのはこれが初めてですね」「うん、もうこれは飲み込まずに口の中に2年間置いておきます」
「あ、なんかもう耳がほとんど聞こえなくなってきました」「あれ?大将、これってもう、逆にマズいまであります?」
「うん、もうここまでウマい場合は“寿司”という考え方自体が資本主義の世界における支配的なイデオロギーということなのかもしれませんね。シャリの上にネタが乗り、そしてネタの上に現代人が乗っている。こう捉えると、この社会の成り立ちが容易に説明できましょう。そうは思いませんかね?」
「ああうまい。これがもし “オカンとセックスしないと食えない寿司” だったとしても、僕は意を決してオカンとセックスする選択をしたんじゃないかな。それだけこの寿司はウマい。いや、もしくはそれだけオカンとのセックスが魅力的と言うべきなのか?ああ、オカンとセックスがしたい。オカン。オカン一丁追加で。」
「あれ?なんで、なくなってしまったんだろう。大将、この寿司って、もしかして、食べるとなくなってしまう寿司ですか? だとすると、僕はいま、人生で一番大切なものを失ってしまったのかもしれません。いつまでも一緒にいられる、そう思っていたのに。ずっと一緒だよって約束したのに
くそ... なんで.... なんで俺は.... なんで俺は最後にあの寿司に優しい言葉の一つもかけてやれなかったんだ... なんで.. なんであの寿司を最後に強く抱きしめてやることが出来なかったんだ... サヨナラも言わず、愛してるだって言わず.... うう.... ぅおぅう... 大将ぅぅう.....
あんたが握ったあれは... 一体、何だったんだ...? あれが... あれがまさか.... 愛か? あの、シャリの上に乗ってたやつが.... あれが.. 愛ってやつなんですか...? あ、ヒラメですか失礼しました」
自分の味覚レベルを痛感するタイミングは、日常にごまんと存在している。この際だから列挙しよう。まずはフレンチを食べている時
肉には赤ワイン、魚には白ワインを勧められるが、“肉”と“赤ワイン”が一体どのようにシナジーしているのか、到底理解が及ばない
余りに分からないのでそれが一種のドグマなのではないかとすら思えてくる。“肉に赤ワイン”を妄信するものは、“肉には白ワイン”という前提の世界に生まれれば「肉には白ワインが合う」と言うのでは?そういう穿った見方をしている
つまり「お肉に赤ワインはいかがですか?」と勧めてくる店員は、あれは赤ワインという名のドグマを勧めてきているのだ。であればいっそのこと、「お肉にドグマはいかがですか?」と提案して頂きたい そうくれば、こちらとて受けいれる準備がある
加えて、「お口直し」として出てくるあのシャーベット。あれは、何でしょうか?あんなものが必要だと感じたことは一度もない。「お口を直したい」という考えが顔をのぞかせたこと自体が皆無
というか本当にお口を直したいなら、“お口直し” なんていうその場凌ぎの対処ではなく、しっかり口腔外科に行くべきでしょう。前菜、スープ、魚料理、ここで一旦席を外し口腔外科で専門的な治療を受けてから、肉料理
あとは、えーとは何だろう、具材の味だ。残念なことに具材には未だ、あまり味がない。味覚小学生マンの味を支配しているのはあくまで調味料であって、具材ではない
サラダが好きとか豆腐が好きとか、具材の好き嫌いを発表してくれる人がいるが、もうそれだけで彼らはハイエンド人材だ。 味覚における初等教育課程を優秀な成績でパスしている
正直、サラダに「好き」とか「嫌い」とか、まだ存在していないのだ。だってサラダの味はドレッシングの味だし、豆腐の味は醤油の味
サラダが好きか、と漠然と聞かれれば、それはもう「ドレッシングによる」としか回答できないし、豆腐が好きかと聞かれれば「醤油による」、正確には「醤油をかけるかどうかによる」になってしまう
醤油をかけるかどうかはお前次第だろ、ということであれば、「豆腐が好きか」に対する回答は、
「己次第」
になる。何をいきなりカッコつけてるんだ?こいつは
というかもう、「好きな食べ物は何か?」という質問。これですら恐ろしい。敢えて言うなれば「ラーメン、カレー、ハンバーグ」になるのだが、これではグリーンピースを克服した直後の小学生
自分が20年以上の歳月を経て得たものがグリーンピースと性欲とケツ毛だけなのかと思うと、悲しくなる
ケツ毛というのはほとんど性欲みたいなもんだから、結局グリーンピースと性欲だ。こうなってくると、グリーンピースも性欲みたいなもんなのか?自分も、違いの分かる大人になりたかった
そもそも、「好きかどうか」で言うと、食べものは、全部好きだ。なぜならば、全部、ウマいから。食べると幸せになるから
焼肉、ピザ、納豆御飯、豚汁、うどん、グラタン、クリトリス、ハンバーガー、生姜焼き、チャプチェ、クンニリングス、ビビンバ、マングリ返し。全部ウマいし、腹が減っていれば尚のことウマい。食べ物というもの自体を、根本的に、愛している。ああ..
腹、減ったなぁ..