もはや日記とかそういう次元ではない

そう、それは日記という既存の枠組みに一切捕われることのない、余りにも宇宙的でユニバースな、それでいてユニバーサルでユニセックスでリバーシブルな、日々の出来事を綴る、例のあれ。日記。

おじさんになったって、失敗しても良いんだよ

  

人間だれしも、おじさんになるにつれ失敗を恐れるようになります。年月をかけて塗り上げたプライドにより、失敗というものに拒絶反応を示すようになる

 

しかし、失敗することは本当に恥ずかしいことなのでしょうか?

 

 

赤ちゃんを思い浮かべて下さい。彼らは自分のやり方で立ち上がり、ガムシャラに前に進み、転びながら歩き方を覚えていきます。誰かに歩き方を教わるわけではありません。転ぶことによって、失敗を重ねることで、歩き方を覚えるんです

 

そう、おじさんだって同じ。何歳になったって、失敗の中にしか「成長」はない

失敗を恐れて動かないおじさんというのは、転ぶことを恐れて歩き出さない赤ちゃんと何ら変わりありません。

 

良いじゃないですか、前のめりに転べば。そうやって前に進む姿は何歳になったって、無条件に美しいんです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という文章をいま書きました。どう見ても素晴らしい内容で、凄く良い事を言ってるなぁ、と我ながらアヘアヘしています、ご満悦です

しかし、自分で書いておきながら腑に落ちないポイントがあります。一部、ロジックが非常に脆弱な箇所がある

 

そう、それは

 

 

 

 

 

 

おじさんと赤ちゃんは、同じなのか 

 

 

 

 

ここです。

 

おじさんが赤ちゃんであることさえ証明出来れば、「赤ちゃんも失敗しながら学ぶんだから、おじさんも失敗しながら学ぼう」というロジックが強固なものになります。

 

 

では、おじさんというのは、本当に赤ちゃんなのでしょうか?

 

まず生物学的属性の観点から分析すると、おじさんというのはヒト科の哺乳類であり、赤ちゃんもやはりヒト科の哺乳類であります。

この点で、おじさんと赤ちゃんはかなり近い部類の生き物だと想定することが可能です。馬よりもおじさんの方が赤ちゃんに近いですし、ガードレールよりも赤ちゃんの方がおじさんです

 

 

では、活動内容やその根源的な欲求はどうでしょう?

赤ちゃんという生き物は、生きる為に母乳を欲します。母乳を求め、母乳を探し、強い信念や気概を持ってママのオッパイを揉みまくります。怒濤のパイ揉みマシーンです。 一方のおじさんはどうでしょうか?社会で抑圧され、妻とはセックスレス、行き場の無い性欲とストレスはオッパブへと流れ着き、オッパブ嬢のオッパイをこれでもかという程に揉みまくるではありませんか。戦慄のパイ揉みリビングデッドです

 

赤ちゃんは生きる為にママのオッパイを揉む。 おじさんは、生きる為にオッパブのオッパイを揉む。なるほど

 

やはり、おじさんというのは、赤ちゃんだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

という理論を打ち出しました。これにて、「おじさん=赤ちゃん」ということが証明されたでしょうか? いや、しかしよく考えるとまだ腑に落ちないポイントがあります。それは、

 

 

 

 

 

 

 

ママのオッパイは、オッパブのオッパイなのか

 

 

 

 

ここです。

ママのオッパイがオッパブのオッパイなのであれば、それが同じものなのであれば、「おじさんと赤ちゃんは同じものを揉んでいる」、よって、「全く同じことをしている」という結論を得るに至ります。そしてママのオッパイがオッパブのオッパイなのかというこの問いは、

 

 

ママは、オッパブなのか

 

 

 

と言い換えることが可能です。ママは、オッパブなのでしょうか。 オッパブというのは、本当に、ママなのでしょうか

 

 

 

 

 

 

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この後、相当しつこく、再三に渡って母親に「ママはオッパブなのか」を問いただしましたが、ママ中のママでありプロのママでありママの権化である私のママへのヒアリングをもってしてなお、ママ=オッパブ、という確証を得る事は出来ませんでした。

 

 

つまり、ママはオッパブであるとは言いきれない

 

 

 

これらの考察により、おじさんが赤ちゃんとは言いきれないということが分かりました。すなわち「冒頭の命題が必ずしも正しいわけではない」という結論が導かれます

 

ここまでの研究結果を考慮し、改めて命題の正しい解釈を以下に示したいと思います

 

 

 

 

 

 

 

人間だれしも、おじさんになるにつれ失敗を恐れるようになります。年月をかけて塗り上げたプライドにより、失敗というものに拒絶反応を示すようになる

 

しかし、失敗することは本当に恥ずかしいことなのでしょうか?

 

赤ちゃんを思い浮かべて下さい。彼らは自分のやり方で立ち上がり、ガムシャラに前に進み、転びながら歩き方を覚えていきます。誰かに歩き方を教わるわけではありません。転ぶことによって、失敗を重ねることで、歩き方を覚えるんです

 

おじさんと赤ちゃんは、どちらもヒト科の哺乳類ですが、正確には同じとは言い切れません。なぜなら、ママがオッパブだと言い切れないからです。

 

よって、「何歳になったって失敗の中にしか成長はない」などとは、到底言い切れません。おじさんと赤ちゃんを同じ枠組みで説明することに、論理的な妥当性がないからです

 

同様に、「失敗を恐れて動かないおじさんというのは、転ぶことを恐れて歩き出さない赤ちゃんと何ら変わりない」という風に断定することも出来ません

この2つは、あくまで違う生き物の、違う所作という風にとらえ、これらは独立した事象として整理し、関係のない事柄として認識する必要があります。

 

 

では、なぜ私は突然「赤ちゃんを思い浮かべて下さい」などと言う、何の意味もない提案をしたのでしょうか。その点については深く反省しております。大切な時間と想像力を奪い、何ら意味の無い赤ちゃんなどという謎の生物の想像を強要し、誠に申し訳ない。かわりに、草原を思い浮かべて下さい

 

そこに、大きな湖があります。その奥には、キリンが見えるではありませんか。さて、キリンは何匹見えましたか?

  

そのキリンの数が、あなたが残りの人生で叶えられる、「夢」の数なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんですかこれは