職業不詳、35歳、バツイチ、独身、子なし、水瓶座である。何かの末期症状のようなステータスであり、これから至るもっと恐ろしい何かの初期症状のようにも見受けられる。
さて、驚嘆している。友人達の出産報告がとまらない。
ありとあらゆる友人夫婦から、毎月のように、それはもう次々と、ボコボコと子供が産まれてくる。
はて。人間ってそんなに簡単に子供産む生き物だったっけ。みんな、あれかな。まさか卵で一気に産んでる?もう、胎生は時代遅れなのか?
久しぶりに大勢が集まる会では、「あれ?もう2人目だっけ?」といった確認が多発。友人の子供の名前を覚えきれない。どうか、子供の名前は、聞いた側が忘れようにも忘れられない、充分に刺激的なものにして欲しい。
「ああ、3人目は魏々々岩輝須(ギギギガンテス)にしたんだよね。みんな、もう覚えられないかなと思って。」
こんな感じで紹介されたら嬉しい。出産祝いも弾みます。
ギ、ギ、ギギギガンテス君か...。すごいな。まだ写真見てないけど恐らく剛毛で筋骨隆々だろうし、分からんけど子供用の服とかは、着なさそうだな。というかそもそも服を着なさそうだな。お祝いは不動産とか渡した方がいいのか...? となる
目下、一大ブームと化している出産育児ではあるが、友人たちにその具合を聞くと回答は完全にと言っていいほど統一されているのである。
「子育ては大変だけど、子供は死ぬほど可愛い」こちらです。
正味、これ以外は聞いたことがない。子育ての感想は、実はあまり人に寄らないようだ
え?子育てなんてぶっちゃけ何もやることないし楽勝よ?とあっけらかんとする育児・放棄男君も、「いやー、意外と子供が可愛くなくて拍子抜けだわ」と吐露するサイコ・パス男君も、まだ見たことがない
皆、子育てには一定苦労し、しかし子供に対して感じる法外な愛情でカバーされているようだ。
父になるということ。これまでの人生で触れたこともましてや想像すらしたこともないほどに愛おしい存在に触れ、費用対効果などという言葉を使うことも憚られるほどに突き抜けた、真の悦びを知るに至ること。
子供が産まれて父になると、みな変わる。たくさん見てきたから分かる。どんな人でも変わる。価値観に革命が起こる。子供が第一になる。優先順位が一新される。
寂しいです。
正直に言わせてもらおう。寂しい。おめでとう!と仮初の笑みで祝福しながら、私の心はむせび泣いている。
ああ、行く先も、帰りの日程も決めずに一緒にフラフラ旅行したり出来ないんだな、とか
「ドウセ、暇してルンデショウ??♡ 」と夜飯いきなり誘ったりできないんだな、とか。そのまま一緒にダラダラと朝まで飲んだりできなんだな、とか。そんなことを考えている
少し好意を寄せていた仲良しの男の子に彼女ができたことを知った女子中学生が如く、シュンとしているよ。
いや。勘違いして欲しくないが、友人に子供が出来ること。それ自体は心底嬉しいんです。普通に、良いことでしかない。そうだな、11くらい嬉しい。17点満点で。
ただ、彼のライフステージが激変し一緒に遊べなくなってしまうことによる寂しさが、約36あるのだ。49点満で。尚、給食がカレーだった時の嬉しさは102です。104点満点で。
これはもう明確に、仲の良い友達であればあるほど、喜びより寂しさが勝る。そしてそれらを、カレーが勝る。
彼が手に入れた、人生で一番大切な物。その栄冠の影で、こっそり順位を1つ落とした自分が不憫でならない。可哀想だ。というわけで決めた。もう、おめでとうとは言わない。
「子供産まれたわ!!」という出産報告に対しては、今後、心底本音で対応しようと思う。以下ように返信する
「まずは、母子共に健康で出産できたこと。これに関しては本当に良かった。心底、安心している。
一方、友人に子供が出来たことがまるで自分のことのように嬉しく、今私が薄暗い部屋で狂喜乱舞しながら渾身のガッツポーズを繰り返しているかというと、全くそんなことはない。
何なら、キミのライフステージが変わりこれまでのような付き合いが出来なくなる寂しさが、おめでたいという気持ちを僅かに凌駕している。そしてそれらを、給食のカレーが遥かに凌駕している。
友人の出産報告を聞いて全身全霊で喜ばないとか、そんな友人、いる...?と不審に思ったかもしれないが、全然不審がる必要はない。例えば6匹の手持ちパーティの中で最も弱いポケモン。そうだな、ラッタを想像してみて欲しい。
ラッタは1番道路で出会った主人公と共に数々の困難を乗り越え、屈強なジムリーダー達を共に倒し、相棒として無人発電所まで辿り着いた。死闘の末、一行は遂に伝説のポケモンを捕まえるに至る。
「サンダー、捕まえた!!」とポケモントレーナーが目をキラキラさせながら手持ちのポケモン達に報告する。一同は大いに盛り上がる。最強のポケモントレーナーを目指す主人公にとってはこの上ない、至高の瞬間だ。
この時、サンダーを入れるかわりにパーティから外れるのは、ラッタだ。ラッタはこの状況で、「おめでとう」と言えるかな?
サンダーにそのポジションを明け渡しポケモンボックスへと送られる運命であるにも関わらず、それでも、その寂しさや辛さをグッと堪えて、ポケモントレーナーに「おめでとう!」と言えるかな?
言えると思う。酸いも甘いも知る、真の理解者、ラッタなら。
大切な人が夢に近づく瞬間を共にできた喜びを噛み締めて。これからもっと強くなれよというエールを込めて。そして、これまで自分みたいな弱いポケモンを必死に使ってくれて有難うという感謝の気持ちを込めて。
ラッタは多くを語らず、いつも通りのしかめっつらで、それでも彼なりの笑顔で。「おめでとう!」とだけ言い残して。涙を見せず、二度と開かれないであろうボックスへと去っていく。
なぜラッタにすら言えることが、自分には言えないのか。ましてや、少し好意を寄せていた仲良しの男の子に彼女ができたことを知った女子中学生とて言えるであろうことが、自分には言えないのか。いま、とても恥ずかしい。
そもそも。友の幸せを自分のことのように喜べる、そんな間柄が、それこそが真の友情というものではないだろうか?何なら友情に限らない。他人の幸せを喜べることは、より高度な人間の条件だ。
周りの気持ちも考えず自分視点のロジックだけを振りかざすようでは、観光客のチップスを素手で鷲掴みする野良オランウータンと何も変わらない。今、これから自分が至る野良オランウータンの初期症状が出ているようで、恐ろしい。嗚呼恐ろしい。
だから、言うことにするよ。自分の寂しさが優っていても尚、大切な人の幸せを喜ぶ、高度な人間になりたいから。真の友人に、高度人間になりたい一心で。
これは、成長だ。君のライフステージがかわったように、私もこのおめでとうでヒューマンステージが変わっていくんだね。おめでたい。ここに来て、きみも、私におめでとうと言う必要が出てきたようだ。
今、互いにおめでとうを言い合わないといけない状況なので、互いのおめでとうを相殺しよう。さすがに出産の方がおめでたいから、俺からのオメデトウのうち相殺された残りの分だけ言うぞ。
トウ!!!」 友達
いなくなるわ